その夢さえ、きっと
「ふぅん、夜盗がそんなにね」
「近隣の村が大変な目に遭っているらしいですよ。長江の治水のほうもあんまり進んでいませんし」
「忙しいんだ」
「ええ、忙しいです。だから仕事している人間の横で饅頭食うの止めてもらえませんか、姫様」
「美味しいわよ」
「美味しいとか不味いとかこの際はどうでもいいんです。そうじゃなくて」
「気が散る?」
「ええ、まぁ」
凌統の言葉に気にした風もなく、尚香は「ごめんね」と言いながら饅頭を口にする。
この部屋に来るまでに饅頭を運ぶ女官に会い、ねだって一つ分けてもらったらしいが
わざわざ仕事している人間の横で食うことはないんじゃないかと、凌統は硯を軽く指で弾いては
ため息をついた。
「凌統も食べる?甘いものは元気が出るっていうでしょ?」
「俺は甘いもの苦手だからいいです。第一、それ一つしかないでしょう?」
「仕事がはかどるわよ、きっと。分けてあげる」
そう言いながら尚香は饅頭を千切り、何の頓着も恥じらいもなく「はい」と言った。
困惑したのは凌統である。
はいと言われても今自分の手元にはまだ書きかけの竹簡が残っているし、墨がついた筆を
握ったままで手は離せない。
「喰えませんって」 「じゃあ口開けて」
何を意図しているのかは分かった。
思わず凌統は冗談でしょうと聞き返しそうになったが、真面目に饅頭の欠片を持っている尚香の顔は、
それが本気であることを示唆している。
甘い饅頭の匂いが鼻をついた。
凌統は心持ち身を引いたが傍には文机があって阻まれてしまうし、身を引けば尚香が身を乗り出すので
距離はまったく広がらない。
「口開けて」
再度、今度はやや怒ったような声音を含んで尚香はそう告げる。
観念したように凌統が口を開けるとすぐさま饅頭の欠片がその中に入った。
口中に広がる甘い匂いは饅頭のものか、先ほどまでの饅頭の持ち主の焚き染めてある香かは量りかねた。
尚香は満足そうに頷いて、「美味しい?」と小首を傾げる。
「……甘い」 「美味しいでしょ」
口を動かしながら頷いたが、顔に熱が上るのが分かったので慌てて顔を逸らして文机のほうを向いた。
自分が書いた竹簡を見聞する振りをすると、尚香もそれで話しかけるのを諦めたのか残りの饅頭を
頬張った。
竹簡を一つ書き上がった頃、部屋が妙に静まっているのに凌統は気づいた。
ようやく静かになったかと安堵して伺った後ろに、碧緑の輝きはない。
その仔猫を彷彿とさせる双眸は閉じられ、昼下がりの温かい光に甘えるように静かな寝息を立てていた。
呆れたように凌統は長々とため息を吐いた。
腹が膨れれば寝るなど、本当に子供か仔猫と一緒である。
「ひ…」
姫様、と呼びかけた言葉を飲み込む。
起こすのを躊躇うほど、彼女は幸せそうに寝入っていた。
差し込む陽光に透けた髪はいつもよりも一段淡い色になっており、時折陽光と同じように
金の光を弾いていた。
思わず伸ばした指に、何の抵抗もなく柔らかなそれは滑る。
癖のないその髪に己の指を絡め、指の間をすり抜けさせてはまた絡める。
髪に触れている指はそのまま頬に触れた。
傷も何もない白磁の肌は凌統の指に温かく馴染む。
眠っているこの人が呑気なひとだということを凌統は知っている。
呑気で優しく、温かなひとだということを。
何の夢を見ているのかは分からなかったがその夢さえ、きっと温かく甘いものなのだろう。
寝顔を見て零れるのは笑顔ではなく苦笑ではあったが、それも悪くはない。
音を立てずに凌統は立ち上がり、寝台から掛布を引っ張り出して静かにその体に掛けた。
小さく身じろいだ頭を撫でると、先ほどと変わらない穏やかな寝息が聞こえる。
もう一度凌統は文机に向かい、もう口中に残っているはずもない甘さを僅かに思い出して
硯を摺った。
<了>
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乃上さんどうもありがとうございました!
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